城跡に関しては今までは愛西市の物しか紹介していませんでしたが、今回の奴野城は津島市の城跡です
津島市に関しては愛西市の数くらいの城跡を想定していたのですが、どうやら津島市に城跡として存在するのは今回紹介する奴野城くらいのようです
という事で紹介を今回もAIにお願いしています
奴野城とは?
愛知県津島市にあった中世の居館で、現在は西方寺の境内が城跡とされます。明確な土塁・堀などの遺構は残っていません。
概要
奴野城(ぬのやじょう/ぬのやじょうあと)は、津島の在地勢力・大橋氏の居館です。縄張は平地の居館で、標高はおよそ4.4メートル。付近一帯は北側の宝町筋より約1.5メートル高く、わずかな微高地です。『尾張志』には「奴野城、在津島米座、一作布屋……今為寺、曰西方寺、塁尚存」とあり、江戸時代にも塁の痕跡が意識されていました。布屋は西方寺の旧地で、昭和28年(1953)の区画整理後に天王通りとなっています。
- 所在:愛知県津島市天王通り4丁目(西方寺、天王通り4-23付近)
- 築城:元弘2年/正慶元年(1332)、大橋三河守定高
- 廃城:天正12年(1584)頃とする説
- 主な城主:大橋定高・大橋氏、伝承上の良王君、のちに平野氏
歴史
本格的な城館は1332年の大橋定高による築城とされます。それ以前から大橋氏の屋敷地があったという伝承もあり、源頼朝が大橋肥後入道貞能の隠居地として海部郡を安堵した話が系図に残ります。
南北朝期以降、大橋氏は南朝方との結び付きが語られます。『浪合記』などによると、後醍醐天皇の孫とされる尹良親王が長野県の浪合で討ち死にしたあと、その子・良王君が永享7年(1435)に大橋定省の奴野城へ入ったとされます。良王の嫡子は大橋氏の養子となって大橋和泉守信重を名乗り、「津島大納言」と呼ばれたという伝説です。尹良・良王は創作上の人物とする見方もあり、史実としては慎重に扱う必要があります。津島の大龍寺は、良王が父・尹良の菩提を弔うために開いたと伝えられます。
戦国期には大橋氏が織田氏と縁を結び、一方で奴野城は津島四家七名字の一つ・平野氏が治めたとする記録があります。平野賢長の孫が、賤ヶ岳七本槍の一人・平野長泰です。第三次長島一向一揆の際には織田軍の拠点として使われたとされます。大永4年(1524)には大橋定広が勝幡の織田信定と戦って敗走した、という系図の記述もあります。
西方寺は天文9年(1540)創建とされ、延享4年(1747)に火難を避けて橋詰町からこの城跡へ移ったとされます。
という事で津島市に唯一存在する城跡も石垣が残っていたりとそういう事は無いようです

中も入らせてもらいましたが、特に歴史を感じるようなものはありませんでした。。。
あいさいマップ 