はじめに
愛西市早尾町にある城跡です。
ついでに近くにある早尾の渡し跡も見て来ました・・・
早尾東城
早尾東城は16世紀の初めに津島の豪族大橋源三右衛門が築城したと言われています。
その後廃城となり跡地は現在も残る常徳寺となっています。
現在、遺構は残っていなく石碑があるのみで、この石碑は常徳寺の駐車場の1画に建てられています。
常徳寺の方ならもう少し詳しい話が聞けるのかもしれませんが、着た事に満足な自分は次の目的地に向かいます。
早尾の渡し跡・高札場跡
ここだけなら来なかったと思いますが、早尾東城から自転車で5分くらいの場所にあるので見てきました・・・
ここも石碑と説明板があるのみです。
とりあえず説明板を読んでみます・・・
天正のころ津島を治めていた徳永法印は、関ヶ原の合戦の功績により美濃の高須城を与えられました。
両方の領地を頻繁に往復する必要が生じ、津島の上新田とこの地に官制の渡しを設けました。
法印が死んだ後もしばらくこの制度は続いていました。
200年ほど時代が過ぎ延享5年(1748)の尾張国海西軍津島之図には川幅230間ほどとして、渡しのあったことを示しています。
明治の木曽川改修により佐屋側が廃川になるまで、この渡しは美濃と津島を結ぶ大事な交通路の一部になっていました。
高札場はこの渡し場よりやや北にあり、街道に面して建てられていました。
キリシタン宗門改め御触書や御定法などが書かれていました。
尾張徳川と美濃の高須は深いつながりがあり、多くの人々が往来しました。
その多くの旅人たちもこの高札を読んだことでしょう。
立田村で唯一の高札場跡とされています。
この中で佐屋川は廃川となったと記されていますが、ほぼ同じ場所に灌漑用水路として「佐屋川用水」が整備されています。
もう1点初めて聞いた言葉に「高札場」があります。
読みは高札場(こうさつば)と読み、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のこと。(国土交通省)との事です。